第一課


id:tomozo3さんとid:partygirlさんから「IT田みつほバトン」というものを紹介していただきました。なんでも適当に文章を書いて末尾とか適当な部分に「人間だもの」を付け加えて遊ぶと、詩想の無い人も何となく詩人らしくなったような錯覚に陥ることができるものらしいので、先生もやってみます。


子猫殺しに関するサド侯爵の見解

■序

 余の理想とする背徳的国家を作り上げた偉大なる日本国民に申し上げたい。いまや日本国にはあらゆる性癖を持つ市民を慰安する施設を国中に建設し、レンタルビデオ店等にはあらゆる性癖を持つ市民の慰みとなるべきビデオ作品が流通している。また、最近ではほぼすべての市民に対して猥褻図画を無料配布する目的を持つインターネットの普及がすさまじい。そしてこのインターネットの副次的効用として歓迎されるべきことは、古い道徳において背徳あるいは悪徳とされてきたところの姦淫、窃盗、誹謗中傷、強姦、堕胎、殺人といった問題の真剣なる検討が行われていることであり、これは非常に歓迎すべき行いである。
 諸君日本人が真に戦闘的な愛国者たらんとすれば、天然自然の理にのみ耳を傾け、自らの欲望の赴くままに悪徳の限りを尽くし、古ぼけ苔むした美徳を嘲笑し、真の愛国者たる原理に基づいて行動すべきであると信ずる。然るに余の敬愛してやまない日本人の中に、未だ唾棄すべき古き悪しき美徳に縛られている輩が多いということを肝に銘じねばならない。我々真の愛国的なる市民の務めは、そのような迷信と古い美徳の監獄の闇の中に閉じ込められている同胞の魂を救い出し、ともに革命の完成を目指す同志として迎え入れることである。



■諸動物に対する殺害行為について

 諸君日本国民の同胞を救いがたい迷妄の監獄の中に閉じ込めている根源たる古ぼけた美徳の主犯者の一つに慈善というものがある。このおどろおどろしくも獰猛な龍の如き害毒が恐怖の首をもたげたのが、最近話題の作家による子猫殺しである。おお、諸君よ、願わくばこの恐ろしき慈善の害毒のくびきを自ら断ち切って、真の自由なる国民として再生せよ。
 さてこの子猫殺しの話には幾多の疑問が生じる。
その一 この行為は自然の唯一の法則に鑑みて犯罪といえるか?
その二 作家はこの行為の持つ意味を正しく理解しているか?
その三 この行為は社会に対して犯罪たりえるか?
その四 この行為は弾劾されるべきか否か?
 これら四つの疑問を、余は一つづつ別々に、検討して行こう。まずはその一、子猫殺しは自然の理から見て果たして犯罪たりえるかということである。
 まず自然の理とは何であるか。この問題を検討する鍵は、その存在が自然の役に立つ存在であるか否かにかかっている。そこで余が諸君に聞きたいのは、いったい生まれたばかりの子猫が自然に対してどれだけの価値を生み出しているだろうか?一歩話を進めて自然に貢献する材料は何であるか?生命の誕生を導き出す元素は何であるか?それらはほかの生命の破壊の上に成り立つものではないのか?もしもすべての生命が永久不変で何からも生み出されずまた何も生み出さなければ自然の介入する余地はなくなってしまうのではなかろうか?もし生命の永久不変であることが自然の理に鑑みて不可能であるならば、自然の理とは創造と破壊の二つの側面を持つという理解に達するであろう。
 自然の理の一片が創造であり、もう一片が破壊であるという真理の上に立ったならば、破壊が背徳であるなどとどうしていえるだろうか?自然が破壊を行うためには創造なくして成り立たず、また創造するためには破壊がなくては成り立たない。たとえば自然の破壊の産物である動物の死骸の中では小さな虫や菌類が創造され、虫や菌類が作った土壌に植物が生い茂る。そして植物を食べる動物がまた生まれるというこの自然の理に対して、子猫を殺すことが何の罪になるといえるであろうか?子猫を殺すことは即ち子猫の中に菌類や虫たちを創造する自然の手伝いをすることであり、自然の流れに協力するだけのことである。そこで賢明な読者諸君は気がつくであろうが、我々がどれだけ破壊殺戮を犯しても、それは自然の理の中でそれを手助けするだけで、自然そのものを破壊することは決してできないのである。ここにおいて、子猫を殺すことが自然の理の推進になることはあれ、それを阻害することには決してならないものであることを知らなければならない。
 以上の自然の理に沿って話を進めていけば、作家の主張にいくつかの間違いがあることがわかってくるであろう。まず作家は子猫殺しの代替案であるところの避妊手術を「その本質的な生を、人間の都合で奪いと」るものとして否定しているが、これは間違いである。我々はすでに、人間のいかなる行為も自然を冒涜することにならない、より正確に言えば人間はどんなにがんばっても自然を冒涜することが不可能であるということを証明済みであるから、避妊手術を否定することは間違いであることを知っている。また、本質的な生とは何であるかと問えば、それは天然自然ありのままの生を生きることであり、生殖能力を奪われたものは奪われたまま、持つものは持つまま生きるということである。生殖能力を奪うことが本質的な生の剥奪であるなどというのは人間の下らぬ理屈の思い上がりである。また、『獣にとっての「生」とは、人間の干渉なく、自然の中で生きることだ』というのも間違いである。獣にとっての生とはただ生き続ける以外の何物でもなく、野生か飼いならされているかの問題は存在しない。むしろ、苦労せずに餌が供給されるのであれば、獣は野生よりも生存の容易な飼いならされることを望むであろう。獣は野生のままでいるべきだというのは、人間の勝手な理屈である。
 全般的に作家のエッセイ「子猫殺し」を読めば、この作家の行動自体は正しかったとしても、未だ人間の身勝手な理屈で行動していたということがわかるであろう。この作家が非難されるべきは行動の結果ではなく、行動を起こす要因となった理屈が間違っているという点においてであることを、我々は肝に銘じなくてはならない。
 この行為は社会に対して犯罪たりえるか?
 おお、ここまで読み進んだ賢明なる読者諸君にはなにをか言わん。この行為が社会に対して罪をなしていないのは明白である。我々はすでに大勢の同胞を殺した人間に名誉と栄光を与えているではないか!あの愚かなるロベスピエールもその権力の中にあっては英雄であり、かのコルシカの怪物でさえ我々は皇帝として押し頂き、何十万何百万という同胞を死に至らしめたではないか!これら恐るべき殺人者たちが英雄として祭られる社会において、猫を数匹ころす人間のなにをとがめられようか?ということで次に進む。
 この行為は弾劾されるべきか否か?
 これまで子猫殺しの行為を自然的側面と社会的側面において、この行為が弾劾されるべきか否かについて検討を重ねてきた。そして我々は、この子猫殺しの行為自体が自然的社会的どの側面においてもまったく弾劾するに値せず、唯一責められるべきはかの作家の思い上がりから来る人間本位の思想しかないということを知った。
 しかし、世にはびこる慈善という名の悪徳は数世代に及び人々の魂を篭絡し続け、堅牢なくびきを諸君に架している。そこで余は親愛なる読者諸君に呼びかけたい。諸君はすでにこの記事を読み、子猫殺しが何ら罪にならぬということを心の奥底から理解したと信じるものであるから、諸君には努めて無知蒙昧の慈善家たちの見当違いな非難を嘲笑してやってほしい。間違っても慈善家たちを舌鋒鋭く攻撃してはならない。彼らは攻撃されればされるほどその紐帯を強くし、得意の深刻面(しんこくづら)でその支配を強くするであろう。そうなれば、我々の打つ手はない。そこで、我々は彼らを攻撃するのではなく、嘲笑してやることによって彼らの深刻面を破壊しなければならない。作家のエッセイを弾劾する記事を書き、トラックバックを飛ばしあって慈善の心を満たしている奴らには、ところどころにリンクを貼って嘲笑し、彼らの真剣な記事があたかも軽薄な受け狙いのお笑い記事を書いているように感じさせてやらねばならない。彼らの慈善に満ちた言動が、いたるところで愚弄嘲笑の的になるようにしてやらねばならない。
 こうして、諸君らのたゆまぬ愚弄嘲笑によってのみ、日本国民が良識の仮面をはがし、慈善のくびきから逃れ、真の理想国家建設にまい進してゆけるのを、心から信ずるものである。
人間だもの。